図書館通いの高齢者にみる「定年後を楽しめない人」の特徴

image

定年退職したものの、職場以外の人間関係はなく、家にも居場所がない…老後に孤独になってしまう人は何が問題なのでしょうか? 幸せな老後を送るために必要な生き方を、哲学者の岸見一郎さんが語ります。

※本稿は、岸見一郎著『老いる勇気』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

定年後の悩みは対人関係の悩み

日本は世界に冠たる長寿国です。平均寿命は、男女共に80歳を超えています。中国唐代の詩人・杜甫は、70歳まで生きることは「古来稀なり」といっていますが、日本では今や約5人に1人が70歳以上です(2019年9月現在)。

多くの人が長寿を願い、実際、老後の人生は長くなりました。しかし、それを謳歌できている人ばかりではありません。ことに定年を迎えて職場を離れると、めっきり老け込んで、体調を崩してしまう人もいます。

生活のリズムが大きく変わることもその一因と考えられますが、定年後の人生を楽しめないのは、対人関係の変化に関係があります。定年退職すると、仕事を介したつながりの多くを失うことになります。それに代わる新たな対人関係をうまく築けないことが大きな問題になるのです。

アドラーは、すべての悩みは対人関係の悩みだといっています。定年後の悩みも、対人関係の悩みなのです。

地域の図書館に行くと、最近は子どもよりも退職した男性の姿が目立ちます。誰と挨拶を交わすでも、何か調べものをしているというわけでもなく、新聞を読んだり、新刊書をぱらぱらとめくったり、窓辺の椅子でうたた寝している人もいます。

図書館に通って知的欲求を満たすこと自体は、もちろん健全なことです。図書館までの道のりを歩くだけでも、家で無為に過ごしているより健康にいいでしょう。

しかし、知的欲求を満たすことができる図書館通いに、心躍らせている人ばかりではありません。退職後、新しい関係を取り結べず、家にも居場所がない人が、誰にも話しかけなくてもよい図書館に救いを求めているようにも見えます。そんな人も、本当は人とのつながりを求めているのです。

アドラーは、『人生の意味の心理学』の中で、こういっています。

「われわれのまわりには他者が存在する。そして、われわれは他者と結びついて生きている」

人間は”人の間”と書く通り、人々の間にあって、他者と結びつきながら生きています。山奥でひっそり暮らす人でさえ、麓の里に住む人のことを意識していないわけではありません。完全に自分のことを忘れ去られてもいいとは思っていないでしょう。

麓の人もまた、その仙人のような人のことが気になっているはずです。そういう意味で、他者とのつながりのない人、一人で生きている人はいないのです。

同書でアドラーは、「もしも人が一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう」とも指摘しています。単独では生物的に弱いというだけでなく、他者とのつながりなくしては”人間”としての生をまっとうできないということです。

他者との摩擦を恐れない

アドラーは、「自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」といっています。ここでいう勇気には、2つの意味があります。

1つは、課題に取り組む勇気です。なぜ勇気が要るかというと、課題に取り組めば、結果が明らかになるからです。何らかの結果が出てしまうこと、そこで思うような結果を出せないかもしれないということを恐れる人は、課題に取り組むことを躊躇してしまいます。

例えば、勉強しない子どもに、「あなたは、本当は頭のいい子なのだから、本気を出せばいい成績がとれる」という親がいます。

しかし、そういわれると子どもは本気を出して勉強しようとはしません。本気を出してもいい成績がとれないという現実に直面したくないからです。「やればできる」という可能性の中に生きているほうがいいからです。

定年後の新たな取り組みも同じです。「自分は、やればできる。ただ、今はしないだけだ」というのは、できないかもしれないという現実から逃げているにすぎません。「こんなことは、やっても無駄」「取り組むに値しない」と断じるのも、課題から逃れるための方便です。

何事も、取り組まないことには始まりません。できない可能性もあるけれど、その場合も「できない」という現実から始めるしかないのです。いつまでも「やればできる」「そのうちやる」という可能性の中に生きていては、道を拓くことはできません。

アドラーが指摘する今一つの勇気は、対人関係に入っていく勇気です。他者と関われば、摩擦が起きないわけにはいきません。人から嫌われたり、憎まれたり、裏切られたりすることもあるでしょう。

それを恐れて、「嫌われて傷つくくらいなら、他者と関わらないほうがいい」と考える人は少なくありません。「近所付き合いなんて面倒なだけ。何の益もない」と嘯くのも、対人関係に入っていく勇気がない証左です。

アドラーは、「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」といっていますが、生きる喜びや幸福は、対人関係の中でしか得ることはできません。

若い頃、長く付き合っていた彼や彼女となぜ結婚しようと思ったのか。この人とだったら、きっと幸せになれると思ったからに違いありません。その決心が後になって大きな誤りであったとわかることになるとしてもです。

人間は、他者とのつながりの中で生きています。他者とのつながりを離れた幸せはないということです。

老後を幸せに過ごしたいと思うのであれば、対人関係に踏み込む勇気を持たなければなりません。もっとも、義理で気の進まない対人関係に入らなければならないわけではありません。むしろ、これからは義理や世間のしがらみから離れ、本当に大切な人との関係を大切にしていくことのほうが重要です。

ありのままの自分を好きになる

そのような対人関係に入っていくためにも、何より「自分に価値がある」と思えることが肝心です。自分に価値があると思えればこそ、対人関係に入っていこうと思えるからです。

ところが、生産性を唯一無二の価値としてきた人は、その源泉である仕事から離れると、自分に価値を見出せなくなります。

しかし、退職して失うのは、所属や職責、肩書きだけです。齢を重ね、様々な衰えが顕在化してきたとしても、人としての価値が減じることはありません。

ありのままの自分に価値を認め、「今、ここ」にある自分を好きになる──そのためには、価値についての考え方を転換する必要があります。生産性に価値がないわけではありません。生産性にのみ価値があるわけではないということです。

雄の猿は、自分の優位性を誇示するため、他の雄猿の背に乗る習性があります。マウンティングと呼ばれる行動です。

「ご職業は?」「どちらの会社にいらしたのですか?」「ご出身の大学は?」と、初対面の人に学歴や職位を問うのも、同種の行動といえるでしょう。それによって自分と相手との上下・優劣をはっきりさせ、言葉遣いから遇し方まで、相手に対する態度を決めているのです。

このような振る舞いはすべて、劣等感や虚栄心の現れです。過去の栄光にいつまでもしがみつくのは、格好よくありません。

ありのままの自分の価値を認める、自分のことを好きになる、といっても、いきなりは難しいと感じるならば、まずはこうしたことをやめることから始めてみるといいでしょう。

互いの過去を比べるのではなく、「今、ここ」にある相手に関心を向けることを意識すれば、おのずと初対面の人に投げかける質問や会話の中身も変わってきます。

病気も、生産性にのみ価値があるわけではないことに気づくチャンスの1つです。私の友人は、働き盛りに会社の健康診断で膵臓ガンが見つかりました。早期に発見できたおかげで一命は取り留めましたが、ほどなく彼は会社を辞め、今はキャンピングカーで日本全国を旅して回っているようです。

病気をきっかけとして、彼は人生において自分が大事にしたい価値について考えたのだと思います。病気をしても変わらない人もいますが、それを人生の価値について考えるきっかけとして活かすことができれば、その後の人生に新たな地平が見えてくるはずです。

関連書籍・雑誌

老いる勇気

岸見一郎(哲学者)

ただ生きているだけで、あなたは人の役に立っている――ベストセラー『嫌われる勇気』の著者が、「今、ここ」を精一杯生き、老いを愉しむための最上の幸福論を説きます。