人口減少ニッポンでは、やがて「好きな場所には住めなくなる」理由

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人口減少が進み、日本人が奪われるものとは?

「人口減少」の不安をあおるニュースが続いている。

リクルートワークス研究所の予測によれば、日本がほとんど経済成長をしない場合、労働力の供給は下がりつづけ、2040年には需要全体のおよそ16%にあたる1100万人分の労働力が不足するという。これは今、近畿地方の就業者数に匹敵する数だという。つまり、あと17年もすると、近畿地方で働く労働者がすべて消滅してしまうというわけだ。

「そこはロボットやChatGPTの出番だろ」と言う人もいるだろうが、あとわずか17年で医療・介護という人の命を扱う仕事や、道路や水道などインフラの保守点検が完全にそっちに切り替わるとはさすがに考えにくい。

 専門家の中には、このままいけば、医療や介護が受けられなくなったりする人や、地方の道路や穴だらけで、ゴーストタウン化するようなところもでてくるのではないかなんて悲観的な見方もある。

 このまま「人口減少」が進むと、日本人はある”自由”が奪われるのではないかと筆者は考えている。

減少は緩やかになるという見込みに欠けている重大な問題

 人口減少の不安に拍車をかけているのが、国立社会保障・人口問題研究所が5年ごとに調査している「日本の将来推計人口」の公表だ。

 それによれば、2070年の日本の人口は、およそ8700万人。2020年時点で1億2615万人なので、あと半世紀で東京都の人口のおよそ3倍にあたる4000万弱の人間が消滅することになる。

 ただ、この減少具合は5年前の試算よりも緩やかになっているという。というと、「少子化対策の効果が少しはでてきたのか?」と思うかもしれないが、そうでない。

「前回推計よりも出生率は低下するものの、平均寿命が延伸し、外国人の入国超過増により人口減少の進行はわずかに緩和」(日本の将来推計人口プレスリリース)。要するに、高齢者が長生きをして、外国人が予想以上に増えていくだろうというワケだ。

 この手の推計で出てくる日本の人口は「外国人を含む日本に常住する総人口」が対象だ。そして、外国人は技能実習生制度などの受け入れが拡大したことにより、2066年には外国人が日本の総人口の1割に達するという。

 しかし、この予測には大きな「穴」がある。

 現在、外国人をまるで奴隷のように扱う技能実習生制度は廃止すべきという議論が進んでいる。しかも、他国と比べて賃金が異常に低い日本に「出稼ぎ」に行きたいという外国人が減っているのに、賃金が上向く兆しすらない。つまり、これからの日本は現在の予測よりも減少具合は深刻になっていく恐れもあるのだ。

 このように人口が急速に減っていくという現実を突きつけられると、「いよいよ本格的に少子化対策に取り組まなくてはいけなくなった」と危機感を抱く人も多いだろう。

 ただ、悲観的なことを言うようで恐縮だが、もはや日本では効果的な施策を打つことはできないだろう。

 これから時々で、あれをすべき、これをやらなくては、という話は次から次へと出てくるが、「誰が責任を取るのか」「弱者切り捨てだ」なんて反対意見が出て、何も決まらない。そういうこうしているうちに、のっぴきならない状況に追い込まれてしまう。

 そして最終的に政府は追いつめられる形で、国民が自分の意志で好きな場所に住んで生活をする自由、つまりは「居住の自由」が制限される、と個人的には考えている。

 なぜそう思うのか。

日本は危機を予見し、ヤバイと叫びながら変われない国

 そもそも、なぜ異次元の少子化対策が効果がないなどと断言するのか。理由はシンプルで、過去50年間取り組んできても無理だったものが、このタイミングで急に状況が変わるとは思えないからだ。

 例えば、1967年4月27日の「ふえる老人 減る子供 人口問題をどうする 厚相、審議会に意見きく」という読売新聞の記事では、以下のような厚生省人口問題研究所の推計が掲載されている。

「総人口は約500万人ずつ増加しているが、これも昭和八十年(一億二千百六十九万人)をピークとして減少に転じる。(中略)昭和九十年には幼少一七%、成人六三%となり、老齢人口が二〇%を占めるという」

「昭和80年」にあたる2005年の実際の人口は1億2777万人で、この試算よりも増えているが、昭和90年にあたる2015年の15歳未満は12.6%、65歳以上は26.6%となり試算よりも深刻なことになっている。

 このような「誤差」はあるものの、日本では50年以上も前に現在の「危機」をある程度正確に予見していたのである。

 では、これまで50年間、政府は何もしてこなかったのかというとそんなことはない。政治家、霞が関のエリート、頭脳明晰な専門家らが延々と議論を繰り返して、さまざまな取り組みを続けてきたのである。

 しかし、どれも空振りだった。大量の税金を注ぎ込んで、子育ての関連の補助金をバラまいたり、なぜ若者は結婚しないのかという調査を行なったりしたが、結局は、50年前の予測通りに進行している。いや、予測よりも状況は悪化している。

 つまり、我々日本人はこの半世紀、「ヤバいよ、このまま行ったらヤバいことになるよ」と叫んで必死に抵抗しながらも、そのヤバい状況にハマってきたという動かし難い現実があるのだ。それが「異次元の少子化対策」なんてキャッチコピーができたくらいで、急にガラリと変わるだろうか。

 変わるわけがない。これまでの50年間と同様に、勇ましいかけ声と大量の税金が投入されるだけだ。日本の人口が8000万人台になって、「4割が高齢者」という世界有数の老人大国になる道はもはや避けられないのだ。

外国人に頼らず、高齢者だけでも幸せな国をデザインするしかない

 そのような意味では、我々が本当に考えなくてはいけないのは、「異次元の少子化対策」などではなく、来るべき世界一の老人国家を見据えて、「人が少なくて、高齢者だらけでも幸せな国」をどうつくっていくのか、という国家のグランドデザインなのだ。

 そこでまず考えなくてはいけないのは、「高齢者を支えるために医療・介護してくれる人材や、肉体労働を担う人材はどうするのか」ということだ。

 これまで日本政府の基本的な考え方は、「日本人の嫌がる重労働は、低賃金でも有りがたがって働く外国人にやらせる」というものだ。これは明治政府が炭鉱の人手不足を「労力の輸入」で乗り切ろうとしたように、日本人の伝統的な考え方と言ってもいい。

 ただ、残念ながらこの道はもうない。日本以外の国は、物価上昇にともなって中央政府が最低賃金を大きく引き上げているので、今やベトナムの都市部などは、日本にやってきて働くのが馬鹿馬鹿しくなるほど賃金が上がっている。この傾向は今後さらに進んでいくだろう。

 日本は最低賃金の引き上げは、中小零細企業の倒産ラッシュにつながるということで異常なまでにブレーキをかけるという世界でも珍しい国だ。これはなぜかというと、中小零細企業経営者の業界団体である日本商工会議所などが、自民党の有力支持団体として選挙を支えているからだ。

 こういう「賃下げ圧力」に政治が従わざるを得ない構造がある限り、日本では賃上げは進まない。ということは、外国人労働者も減っていくということだ。

 そうなると次に出てくるのが「移民」というアイディアだ。日本は島国で基本的に外国人への強い偏見や差別が残っているが、背に腹は変えられぬということで、永住権などを与えることで、外国人に「日本人」になってもらおうという施策だ。

 確かに諸外国に比べて異常なほど賃金は安いが、一方で物価が途上国のように安い。治安もいいし、社会インフラも充実している。日本を「稼ぐ場所」ではなく「穏やかな生活を送る場所」と捉える外国人を迎え入れるのだ。

 これが実現されると、人口減少問題はかなりブレーキがかかるだろうが、実はこれも政治的には難しい。自民党を支える保守団体や保守層は、このような「移民政策」は絶対に認められない。もし選挙公約でそんなことを主張しようものなら、「反日」などど全方向からバッシングを浴びて、失業する議員が続出する。

 ご存じのように、日本の政治家は議員定数の削減すらできないので、自分たちの「身分」を脅かす改革はとことん先送りにする傾向がある。つまり、人口減少によって日本社会に致命的にダメージが発生するまで、「移民政策」というテーマは先送りにする可能性が高い。

 そうなってくると、「高齢者を支えるために医療・介護やしてくれる人材や、肉体労働を担う人材はどうするのか」という問題を解決する、現実的な方法はひとつしかない。

 「人が居住するエリアを小さくする」のだ。

人口4000万人減に見合ったインフラにする

 今、日本は1億2000万人という人口規模に見合う形でさまざまな社会インフラが全土に張り巡らされている。山奥の過疎地にまで電気が通り、郵便まで届けられている。集落から離れた「ポツンと一軒家」が火事になっても、119番すれば、消防隊がやってくる。山の麓にある集落に、地震で土砂崩れが起きれば、自衛隊がやってきて救助をする。

「そんなの当たり前だろ」と思うかもしれないが、これから日本ではそれが難しくなる。

 当たり前だ。1億2000万人用の社会インフラで、人口が4000万人減れば当然、これまでのインフラの維持はできない。

 労働者がすさまじいスピードで減っていくので、郵便も届けられないし、壊れた電柱も修理されない。公共サービスも然りで、消防団や自衛隊は近年、深刻な人手不足に直面しており、入隊希望者の年齢を引き上げるなどでどうにか対応をしている有様だ。

 では、どうするのか。答えは簡単で、1億2000万人用に全国に広げたインフラを徐々に畳んで、8000万人規模に見合うインフラにへと縮小していくのである。

 といっても、人間というのは一度得た豊かさを手放すことは難しい。ネットでポチッとやったものは早く届いてほしいし、家の近くに郵便局があってほしいし、停電しても数時間で復旧してほしいし、110番をしたらすぐに警察に駆けつけてもらいたい。

 だから、インフラの「質」をキープしたまま縮小するとなると、範囲を狭めていくしかない。つまり、地域内に人を集中的に住まわせて、限られた社会インフラを効率的に回すようにするのだ。

 例えば、今の医療や介護がわかりやすい。現在、医療や介護にあたる人々は、地域内に散らばって生活している高齢者一人ひとりをケアするために、自分たちも分散するか、訪問介護のような形で拠点を点々としているので、この移動だけでも時間と体力を浪費している。しかし、もし地域内の高齢者がすべて一つのエリアに集まって生活をしてくれればどうだろう。医療や介護の人々はその場所に集まって、ケアをするので非常に効率的なので、個々の負担はかなり軽減される。

「インフラを分散させない街」では居住の自由が制限される

「そんなメチャクチャな話が許されるわけがないだろ」と怒る人も多いだろうが、これは何も筆者だけが言っているわけではなく、古くは1990年代から人口減少社会の特効薬として唱えられてきた「コンパクトシティ」という考え方だ。

 人が減るので、インフラを担う人も減る。この限られた人的資源でインフラを維持するには、「移動」で時間と労働力を浪費しないように、住民になるべく集まって生活してもらう。こういう考え方で、自治体が主導して「コンパクトシティ」の計画を進めた。

 しかし、ほとんどうまくいっていない。構想としてはどれも立派で、人口減少に対応した「住民が集中して暮らす」という都市計画が立案されるが、現実はその通りになっていない。

 なぜかというと、人には「居住の自由」があるからだ。

「自治体がこれからの日本のためにはコンパクトシティが必要なので、どうぞ皆さんこのエリアに住んでください」と言ったところで、皆さんは素直に従うだろうか。

「いや、オレは田舎暮らしがしたい」とか「郊外にいい住宅分譲地ができたから、そっちでマイホームを買いたい」となるのが普通ではないか。つまり、「コンパクトシティ」という人口減少社会の現実的な解決策は、多くの人が従わない「絵に描いた餅」なのだ。

 ただ、先ほども申しあげたように今後、日本で人口が増えていくということはあり得ない。「移民」も難しい。となると、ここしか現実的な解決策はない。そうなると、政府はどうするかというと「居住の自由」を制限していくのではないか。

 ここに住めるのはこの人だけ、高齢者はここのエリアで暮らすようにと「推奨」という形で、徐々に規制をしていくのだ。

 ばかばかしいと思うだろうが、我々はこの数年、法律でもないマスク着用を守っているではないか。「大切な人の命を守りましょう」「医療・介護従事者の皆さんを支えよう」という国の号令によって、みんな喜んで自分の「自由」を制限している。統制もしていないのに、こんなに素直に国家統制に従う国民というのは、世界を見渡してもそういない。

 あと20年もしたら、我々は「異次元の人口減少対策」のために、自分の好きな場所で生活をすることを我慢するのが当たり前になっているのかもしれない。

(ノンフィクションライター 窪田順生)