年間約6万人が死亡…「脳梗塞」生還者が体験した「地獄のような麻痺の世界」

「2019年:5万9千人」「2020年:5万6千人」「2021年:5万8千人」……これは「脳梗塞」で1年間に亡くなった人の数だ(厚生労働省「人口動態統計」より)。まさに恐るべき病だが、この脳梗塞に若くして襲われ、にもかかわらず見事に社会復帰を遂げたのが根津良幸さん(株式会社 One to One 福祉教育学院・代表取締役、現在62歳)である。根津さんは何を体験し、どうやって回復したのか。高齢化が進み、だれもが脳血管疾患にかかり得る時代、彼の話は決して他人事ではない(以下、「 」内は根津さんの発言)


『写真と動画でわかる! 埼玉医大式 力がいらない介助技術大全』

今でも消えない「脳梗塞Xデー」のトラウマ

「いまでも忘れません。1999年12月7日のことでした。目の前が真っ赤になって、私は自宅2階のリビングで倒れたんです。実は半年ほど前から、メニエール病の症状のような『めまい』をたびたび経験しており、何かおかしいと思っていました。その12月7日に至っては、朝から異常な耳鳴り、めまい、そして立っていられないほどの頭痛がしていたので、『ひどい風邪にでもかかったのか?』と思っていたのですが、まさか、意識がなくなるとは……」

そう語るのは、『写真と動画でわかる! 埼玉医大式 力がいらない介助技術大全』の著者、根津良幸さん(62歳)だ。社会福祉法人の副理事長、統括施設長として、新しい特別養護老人ホーム設立のため奔走していた、その最中の出来事である。昏倒した根津さんは心肺停止に陥り、自宅近くの総合病院に救急搬送された。

自身の近著を前に、闘病体験を語る根津さん(撮影:市谷明美)

「目が覚めたら病院のICU(集中治療室)でした。すぐ看護師がとんできて、『3日間、昏睡状態でしたよ』と教えられ、担当医からは、『脳梗塞です。まずは受け入れるところから始めましょう』と言われました」

心肺蘇生と血栓溶解剤を使った治療でかろうじて命は助かったものの、当時39歳だった根津さんの体には重い後遺症が残った。左半身が麻痺し、右側にも力が入らない。体の部位によっては右半身にまで麻痺がおよんでいて、全身がしびれていた。

水を飲むことすらままならず

「鼻から人工呼吸器のチューブが差し込まれていて、絶えず酸素が送り込まれていたので、喉が風で乾燥してカラカラでした。だから、どうしても水が飲みたかった。でも、しゃべろうにも言葉が出ないんです。『あー、うー』と音を発するのが精いっぱい。やむなく、右手でなんとか口元を指して〈水が飲みたい〉ということを伝えましたが、医師には『無理無理』と言われました」

しかし渇きには耐えられない。それでも、と懇願して吸い口で水を流し込んでもらったところ、

「水が気管に入って全部噴き出しました。喉の筋肉も麻痺していたからです。人って、喉をゴクゴク動かして飲むでしょう。ああやって『水を噛む』ことで喉の開け閉めができ、飲むことができるんです。思い知りました」

水は落下スピードが速すぎ、あっという間に気管に流れ込んでいくから、むせやすいのだ。よく、要介護のお年寄りの飲食物には「とろみ」がつけられているが、それは落下スピードを遅くして一気に流れこまないようにしているのである。

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photo by gettyimages

根津さんが困ったのは飲食だけではなかった。

「顔面も麻痺していて、まぶたが閉じられませんでした。定期的に目薬を差してもらって、なんとか目の乾きをやり過ごしました」

自力で起き上がることもできず、一日のほとんどを病院のベッドで寝て過ごす毎日。すぐに床ずれができ、地獄のような痛みに襲われたが、病院には1ヵ月しか置いてもらえなかった。

「ダブルケア」で途方に暮れていたある日、出合ったのは……

退院して自宅に戻っても、生活の目途は立たない。寝たきりで言語も不明瞭な根津さんは、今でいう「要介護5」相当の状態だったが、当時は介護保険制度(2000年4月~)の施行前だ。家で身体介護を受けられるサービスはなく、自治体からベッドと車イスが貸与され、オムツが支給されただけだった。老健(老人保健施設)はあったが、30代なので利用できなかった。

介護の一切を家族に頼るしかなかったが、それも難しかった。根津さんの妻は重度の椎間板ヘルニアで腰痛に苦しんでいた。調子が悪い日は、一日中立てないこともあるほどだ。しかも当時、根津さんには第一子が生まれたばかりだった。

自身が要介護者の立場で「ダブルケア」に直面し、根津さんは途方に暮れるしかなかった。ところがある日、1冊の本が彼の目に入る。

「枕元に少林寺拳法の教本があることに気づきました。子どもの頃、私は少林寺拳法に熱中していた時期があり、大きな大会に出場したこともあります。でも、なぜそんな本が枕元にポンと置いてあったのか、いまでもわかりません。でも、あったんです」

動く右手で教本を開いた根津さんは、最小限の力で相手の体を動かして倒す少林寺拳法の技術が、身体介助に応用できそうだと直感する。

「これは少林寺拳法を学ぶなかで知ったことですが、人が倒れる方向は決まっているのです。それを応用すれば、起こすこともできるはずだと気づきました」

筆談で妻に介助法を伝えて実行してもらう

腰が悪く介護経験のない妻に、どうやって自分の体を動かしてもらえばいいのか……、ベッドの上で、毎日必死で手順を練った。

「とにかく、妻にどう楽をさせるかを考えました。『自分が楽であれば、妻も楽であるはずだ』という考えから、『自分の体がどう動いたら楽だろうか』『そのとき、そこにどう支える手があればいいか』という発想で、介助の方法をつくりだしていったんです」

問題は、夫婦の体調が日々変化することにあった。季節や、それにともなう気温の変化で、妻の腰の調子は良くも悪くもなる。根津さんの体調も一定しない。暖かい日なら少しは体が動くが、寒くなると麻痺が強くなり、より手厚い介護が必要になった。

そのため、例えば立ち上がり介助ひとつとっても、介護度の高さに応じて方法を考えねばならなかった。実際、先に紹介した根津さんの著書には、細かく数えると実に10通りもの立ち上がり方が紹介されている。そのうちの1つが、これだ。(https://youtu.be/5jKjaShlM7s)

苦心して編み出した寝返り、ベッドでの起き上がり、立ち上がりなどの介助法を、震える手で絵に起こして1つずつ妻に伝え、実行させて、麻痺した体を動かしてもらった。筆談のため書いたノートは、実に100冊にものぼるという。リハビリにも励んだが、そこでもまた、自分で編み出した技術が役に立った。

「私が初めてリハビリに取り組んだときのことですが、立たせてもらって歩こうとした私は、そのまま顔面から転び、鼻の骨を折って大出血しました。うっかり、麻痺している足から歩き出そうとしたからです」

「病気で人生の途中から障害を負った人は、誰でも私のように、できなくなった動きを無意識にやろうとして、転倒・骨折することがあります。転倒のきっかけとなる〈無意識の一歩〉が出ないよう支える方法が、どうしても必要でした」

要介護者が立ち上がった後、その危険な一歩をいったん抑える方法の1つが、次の動画だ。

こうして2年8カ月にわたり療養を続けた末、根津さんはようやく要介護状態を脱出できたという。実に彼は、「要介護5」相当から、それより軽い介護度をすべて経験してきたわけだ。現在では自分で歩き、話し、食べることができるので、生きる術として編み出した技術は、彼の家では無用となった。

根津さん自身は、自分が考えた介助技術はだれにも言わず封印するつもりでいた。療養とリハビリの記憶が、彼にとっては重すぎるトラウマだったからだ。しかし、人生はわからない。あることがきっかけで、今度は根津さん自身が、別のかたちでこの介助技術を実践することになるのである。

後編記事【海外からも熱視線】「寝たきり・全介助」経験から生まれた「埼玉医大式」介助技術が注目されている「驚きの理由」に続きます。


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