最低生活保障「ベーシックインカム」は“魔法の杖”とはなり得ない 実際に導入するなら年間144兆円の財源が必要

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ベーシックインカム導入にどのようなハードルがあるのか?

 猛暑の夏でも、値上げされた電気代を節約するためにエアコンをつけずに熱中症になる人も出てきている──。昨今、物価高が続き、セーフティーネットの拡充が議論される中で、あらためて注目されているのが「ベーシックインカム(=最低生活保障)」という考え方だ。ベーシックインカムとはどのような仕組みで、その導入にはどのような課題があるのか──。ベストセラー『未来の年表』シリーズの著者・河合雅司氏(作家・ジャーナリスト)が解説する。

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 日本は貧しい国になりつつある。国税庁の民間給与実態統計調査(2021年分)によれば、平均給与は443万円だ。2011年は409万円だったので、この10年を見ても、ほぼ横ばいと言ってよい上昇幅だ。

 給与階級別分布を見ると、男性の20.7%、女性は57.7%が300万円以下だ。高齢労働者が増えているという要因もあるが、この中にはワーキングプアも少なくないだろう。

 足元の物価高騰もあって、生活を苦しく感じている人は増えている。厚生労働省によれば、5月の生活保護の申請は2万2680件で、前年同月比11.4%増だ。伸び率が2桁となるのは4カ月連続で、調査が現在の形式となった2012年度以降で初めてである。

 政府や経営者も持続的な賃上げの実現に取り組もうとはしているが、多少の引き上げでは物価の上昇には追いつかない。しかも国民負担率は「五公五民」と言われるほどになり、手取りは減っている。

 そうでなくとも、今後は人口減少で内需が急速に縮んでいく。一方で日本企業の大半は経営モデルの転換に着手しておらず、日本経済の展望は開けていない。

 これでは、若者を中心に閉塞感が広がるのも当然だ。

拡大するベーシックインカム導入論

【グラフ】日本全体が貧しい国に──平均給与はこの10年でほぼ横ばい

【グラフ】日本全体が貧しい国に──平均給与はこの10年でほぼ横ばい

 しかも、AI(人工知能)が急速な進歩を見せ、ホワイトカラーの仕事を奪うとの見立てもいよいよ現実味を帯びてきた。

 将来不安が募るばかりの状況に、最近では全国民に一定額の現金を毎月無条件で政府が支給する「ベーシックインカム(以下、BI)」(=最低生活保障)の導入を求める声も大きくなっている。

衆院予算委員会でベーシックインカムについての日本維新の会の質問に答える岸田文雄首相(右・2021年12月/時事通信フォト)

衆院予算委員会でベーシックインカムについての日本維新の会の質問に答える岸田文雄首相(右・2021年12月/時事通信フォト)

 こうした国民の声に呼応し、日本維新の会は次期衆議院選挙の目玉公約の1つとしてBIを掲げる方針だ。同党は、2021年の衆議院選挙でも公約に盛り込んだが、より現実的にすべく「段階的導入」へと修正を図るのだという。

 馬場伸幸代表は7月に行われた与野党5党首による論戦で、支給金額や対象者の絞り込みに関して検討を進めていることを明らかにした。

 誰しも、いつ病気などで働けなくなるか分からないというリスクを抱えて生きている。もしBIが導入されて、必要最小限の収入を政府が保障してくれるようになれば、精神的にはかなり楽だ。そうなれば、さまざまな分野にチャレンジする若者も増えそうである。

 だが、そんな “夢のような政策”ならば、なぜ自公政権はこれまで導入しないできたのか。

 BIは古くから提唱されてきたアイデアだ。多くの国が導入していてもよさそうだが、そのような話は聞かない。なぜならば、BIはあまりにも非現実的だからだ。

そもそも本来のBIとはどういうものか

 BIとは、暮らすのに不可欠な基礎的水準の金額を、年齢や雇用状況といった条件を一切付けずに全国民に給付する制度である。

 そもそも、日本維新の会が公約に掲げようとしている案も、給付額や対象者の絞り込みをすると言っている時点で、本物のBIとは異なる。

 日本維新の会は、与党との政策の違いを強調したいがために、あえてBIだと説明し続けるだろうが、明らかに別の代物だ。やろうとしていることは現行制度の修正であり、自民、公明両党と大きな違いはない。

 フィンランドや米国などいくつかの国で試験的に実施されている政策もあるが、実態は条件付きであったり、複雑になり過ぎた制度を簡素化したりしているだけだ。これらも本物のBIには程遠い。

 こうした似て非なる“疑似BI”ならばともかく、本物のBIがなぜ非現実的かと言えば、必要となる財源があまりに巨額だからだ。

BI導入に一体いくらかかるのか

 本物のBIを実際に導入するとなると、どれぐらいの財源が必要となるのか試算してみよう。

 生活をするのに最低限必要な額というのは、憲法25条の生存権の理念に基づく生活保護に求めるのが適切だろう。生活保護の給付額の計算式は複雑だが、単身者の場合10万~13万円ほどとされる。

 そこで、計算を単純化するためにここでは「毎月10万円」と仮定する。一方、支給対象も計算の都合上「1億2000万人」としよう。これで計算してみると、国民1人当たり年額は120万円(毎月10万円×12カ月)だ。これの1億2000万人分なので、年間144兆円もの財源が毎年必要となる。実際には、これに給付に関する事務経費も加わる。

 ちなみに、2023年度のわが国の当初予算の一般会計総額は114兆3812億円だ。このうち3割以上を国債に頼っている。

 BIだけに144兆円も使ってしまったら、国防や治安などにかかる予算の財源は別途徴収しなければならなくなる。公務員の人件費も工面できなくなるので、かなりの高負担国家とならざるをえない。

 しかも、これは便宜的に「10万円」で計算した場合の必要額だ。1人月10万円が最低生活保障として妥当かどうかは、今後の物価の上昇などをどう織り込むのかによっても大きく変わってくる。

 もちろん、多くの国民は自ら収入を得ている。そういう人にとっては毎月10万円でも十分かもしれない。無収入者ばかりの世帯であっても、4人家族ならば世帯収入は月額40万となる。

 だが、低収入や無収入の単身者にとっては10万円ではかなり厳しい生活を迫られよう。だからといって給付額を2倍の「月額20万円」とすれば、必要となる財源は年間288兆円だ。しかも、4人家族で月額20万円ならば世帯収入は総額80万円となる。これは最低生活保障と言うにはかなり高額だ。何もしなくともこれだけの金額が得られるならば、勤労意欲が減退する人も出てくるだろう。

 このように本物のBIは、柔軟性に欠けるのである。

「BI導入と引き換えに年金全廃」はあまりに非現実的

 財源をめぐって推進派は、導入と引き換えに基礎年金や児童手当、生活保護など従来の社会保障の現金給付政政策を廃止すると主張している。BIによって事務が簡素化すれば行政コストも削減でき、それも当て込めるとの説明だが、これは計算が合わない。

 2023年度当初予算における社会保障費は36兆9000億円弱である。医療や介護など現金給付以外の社会保障サービスを残すとなれば、回せる財源はさらに小さくなり、行政コストの削減効果も限定的となろう。

 BIの導入と引き換えに、厚生年金を含めて年金を全廃するというアイデアを掲げる人もいるが、こちらはより非現実的だ。

 現行の年金受給額よりBIのほうが低い人が出れば、国民の理解は得られない。だからといって現行の年金水準をキープしようとすれば、多くの国民が増税などの形でかなりの追加負担を求められることになる。年金受給者は、いま何ら問題なく生活できているのに、BI導入で新たに負担を求められるのでは不合理極まりない。BIの仕組みを理解する人が増えるにつれて、反発の声が強まることが予想される。

年金廃止となれば「これまでの保険料を返せ!」

 問題はこれで終わらない。大多数の国民は年金保険料を長年、納めてきている。もし突如として年金制度が廃止となれば、これまでの保険料はすべて払い損となる。当然ながら、これまで納めてきた年金保険料について全額返還を求める要求が巻き起こるだろう。とても政府が払い切れる額ではない。

 国からの給付金ですべての国民の収入を底上げするという手法は、経済が高度に成長することなしには成り立たない。仮に成長したとしても限界がある。BIというのは、最初から見果てぬ夢なのだ。

 だからと言って、社会保障制度が現状のままで良いというわけではない。時代の変化に追いついておらず、しかも政府・与党の改革はあまりに遅い。真に手助けを必要とする人向けのセーフティーネットの強化は喫緊の課題だ。

 現行の社会保障や税制に大鉈を振るうのでは、変化の速い時代には間に合わない。現行制度をベースとしつつ、BIの利点をうまく取り入れることが現実的な選択と言えよう。

 具体的に言うならば、デジタル技術を使えば、国民個々の可処分所得や資産情報をリアルタイムで把握できる。そうした情報を基に、収入が一定水準を下回った人に自動的に現金給付することは可能だ。

人口が減っても経済成長できる政策を

 セーフティーネットの張り直しと同時に進めるべきことがある。国民の収入の底上げだ。多くの人がセーフティーネットを意識せずに暮らせる状況にすることこそが、政策としては王道である。

 それには、企業の経営モデルの変革を促し、人口が減っても経済が成長する状況を作り出さねばならない。労働者も生産性の向上に寄与できるよう自ら磨きをかける必要がある。個々人が必要に応じてスキルを高められるよう、政府のバックアップが不可欠だ。

 繰り返すが、BIは「魔法の杖」とはなり得ない。現状の綻びを修正し、人口減少という荒波にも立ち向かうためには、地に足が着いた政策を急ぎ積み重ねていくことである。

【プロフィール】
河合雅司(かわい・まさし)/1963年、名古屋市生まれの作家・ジャーナリスト。人口減少対策総合研究所理事長、高知大学客員教授、大正大学客員教授、産経新聞社客員論説委員のほか、厚生労働省や人事院など政府の有識者会議委員も務める。中央大学卒業。主な著書に、ベストセラー『未来の年表』シリーズ(講談社現代新書)のほか、『日本の少子化 百年の迷走』(新潮選書)などがある。