安倍晋三を祀る神社が建立…「死ねば、みんな神様」になるのか。神社本庁の見解は?

安倍晋三元首相が神になる。先日、週刊誌で報じられた安倍元首相を祀る神社が建立されるという情報が話題を集めている。  この神社を計画しているのは、奈良県吉野郡にある吉水神社の佐藤素心宮司。本人のブログによれば神社は「安倍神像神社」別名「白樺神社」の名称で長野県下伊那郡阿南町に建立、一周忌となる7月8日には神社建立除幕式と慰霊祭を行うとしているのだ。

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安倍晋三© Palinchak | Dreamstime.com

個人を神社に祀っても問題ない

 この神社に対して、意見は様々だ。SNS上では「絶対に参拝する」「うちにも分霊を勧請したい」と歓迎する人から「さすがにおかしい」「カルト大国ニッポンの闇は深い」と批判する意見が相克している。ともあれ、日本国憲法で信教の自由が認められているので、個人を神として祀っても問題ないのは大前提である。  実在の人物が死後、神社で祭神になっているのは日本では当たり前にみられるものだ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はいずれも祭神になっている神社がある。それどころか、メジャーな戦国大名はたいてい祭神として神社に祀られている。  明治以降でも、乃木希典夫妻を祀る乃木神社や、東郷平八郎を祀る東郷神社はよく知られるところ。さらに、三重県鈴鹿市の椿大神社にはパナソニックの創業者である松下幸之助を祀る社がある。生前は「経営の神様」と賞讃された人物が、祭神になっているというわけである

対馬には「キリシタンを祀る神社」も…

 それだけではない。長崎県の対馬にある今宮若宮神社の祭神は小西マリアである。由緒によれば、戦国大名・小西行長の娘であるマリアは、対馬の大名・宗義智に嫁いだ。しかし、関ヶ原の戦いの後に彼女は離縁され、長崎に移り神に祈る生活を送り世を去ったという。その霊魂を慰めるために建立されたのが、この神社というわけだ。  名前の通り、彼女はキリシタン(キリスト教徒)である。なのに、神社の祭神にするとは、神道とは本当になんでもアリなのか……?  ならば「死ねば、みんな神様」という理屈で、志のある人が手塚治虫神社とか、マイケル・ジャクソン神社とか建立してもいいのだろうか。 

「死ねば、みんな神様」ではない?

 日本の神社の多くが加盟する神社本庁に訊ねてみると、まずこんな説明が……。 「基本的に、みんな亡くなれば神様ということはありません」  なんと! 漠然と神道では「死ねば、みんな神様」なのかと思っていたら、そうではないというのだ。 「神道の考え方では、亡くなった方の御霊(みたま)は祖霊として祭られていきますが、所謂神社で祭られている御祭神としての『神』になる訳ではありません。日本人の古くからの霊魂観では、人は亡くなったあと、御霊(みたま)がこの世にとどまって、いつでも子孫を見守ってくれている存在だと考えてきました。そして、先祖まつりを繰り返すことで家の『守り神』になっていくと考えてきたのです」  つまり、死後すぐに神様になるというわけではないし、神社の祭神と同一になるというわけではないというわけだ

個別に丁寧に考察する必要が

 また「実在した人を祀った神社が多数ある」という考え方も正しくはないという。 「死後に人が神として祭られた神社はありますが、その経緯は個別のものであり、総論として<亡くなった人の神社ができるのは日本の歴史では珍しいことではない>とは、一概に言い難いと思います。それぞれの経緯、理由があるので、比較する場合は、個別に丁寧に考察することが必要でしょう」  整理すると、決して誰もが死後、神社の祭神と同一の存在になるわけではない。かつ、実在した人物を祭神とする神社が珍しくないという見方は雑、ということだ。  この説明を聞いて気になったのは、現に、近代以降の比較的近い時代の人物が祭神になっている神社が存在していること。死後、神様になるわけではないとすると、話がかみ合わなくなるような気がする。その点を訊ねてみると、こんな答えが。

仮に祀られても「神様となるかどうかは別問題」

「個人の信仰や想いでお社を建てることはありますが、それは否定しません」  なるほど、故人を顕彰する意味で神社を建立しても、祀られた実在の人物が神様となるかどうかは別問題ということだ。  なぜなら、神様は信仰をする人がいて、はじめて神様になるものだからである。社殿を建立し「○○の神である」と宣言することは、誰でもできる。でも、誰もその神を敬い参拝しなければ、単なる箱である。乃木神社や東郷神社は、いわば「成功例」であるが、失敗例、すなわち実在の人物を祀る神社を建立したが続かなかったという事例もある

ノリと勢いだけでは継続は難しい?

 かつて熊本県宇城市にあった竹崎神社は、1930年に元寇で活躍した武士・竹崎季長を祭神として創建されたが、今は廃社となり小さな祠が残るのみである。岡山県岡山市にかって存在した三勲神社は、明治初期に尊皇の志を示すとして和気清麻呂・児島高徳・楠正行を祭神に創建されたが、今は石碑が残るのみである。どうも、いつの時代もノリと勢いで実在人物を神様として祀る人はいるものの、継続は難しいようだ。  祀る形を整えるだけなら、誰でもできる。でも、末永く信仰を集めるか否かは別問題ということか。誰も信仰する人がいなければ「神様」にはなれない。森羅万象に神が宿るとする日本の信仰は美しいが、肝心の信じる人がいなければ成立しないのである。  果たして、安倍元首相は神になれるのか……!? <取材・文/昼間たかし>

昼間たかし

ルポライター。1975年岡山県に生まれる。県立金川高等学校を卒業後、上京。立正大学文学部史学科卒業。東京大学情報学環教育部修了。ルポライターとして様々な媒体に寄稿。著書に『コミックばかり読まないで』『これでいいのか岡山』