北別府学さん、片田舎40キロ自転車通学後に牛の世話 家業を手伝いながら野球に打ち込む…悼む

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200勝達成した北別府学さん(写真は92年)
200勝達成した北別府学さん(写真は92年)

 広島のエースとして球団最多213勝を挙げ、カープで初めて名球会投手となった北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんが16日午後0時33分、広島市内の病院で死去した。65歳だった。

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 林間の険しい坂道が果てしなく続いていた。1975年の11月。現役引退し、フロント入りしたばかりの宮川孝雄スカウト(晩年の姓は村上、故人)から声をかけられた。「駒ちゃん、入団交渉も初めてだし、ちょっと鹿児島までついてきてくれんか」。初めての担当選手だったドラフト1位・北別府への指名あいさつだった。

 広島の宇品港からフェリーに乗り、宮崎の日向へ。バスで岩川(鹿児島・大隅町)まで出て、タクシーに乗るころにはもう日が暮れかけていた。山道の先にある曽於郡(現曽於市)末吉町の農家が、北別府の実家だった。驚いたのは、辺りが真っ暗になった午後8時ごろ、自転車にまたがった北別府少年が頬を紅潮させて帰って来たのだ。

 聞けば都城農への往復40キロの道のりを、雨の日も風の日もペダルをこいで通学していたという。自宅に戻った北別府は制服から私服に着替えると、すぐに牛の世話を始めた。「うちにいる限りは僕の仕事ですから」。家業を手伝いながら野球に打ち込む純朴な姿に胸を打たれた。

 プロ入りしてからの北別府は勝負度胸に優れていた。ピンチになればなるほど、精密機械と呼ばれた投球術がさえ渡る。球速は決して速くないが、右打者の懐を突くシュートは一級品だった。自転車通学で培った足腰の強さ、そして農家を営みながら野球を続けさせてくれた両親への感謝。片田舎で育った生き様、魂が白球に乗り移っていた。

 最後に会ったのは、5年前に東広島市のビアガーデンで共演したトークショーだった。「今の若い選手には厳しさが足りない!」。忖たくなしの辛口評論がファンに受けていた。当時はすこぶる元気だと思っていたが、ちょうどそのころから病魔が忍び寄っていたとは…。まだ65歳、ペーちゃん、早過ぎるよ。(報知新聞社OB・駒沢 悟)