財津和夫 番組収録中に鼠径ヘルニアを発症、45周年ツアー中、大腸がんの手術を。嫌いだったバンド名「チューリップ」が、好きになってきた(後編)

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デビュー50周年を迎えたチューリップ(写真提供◎財津さん)

2022年、デビュー50周年を迎えたチューリップ。昭和の青春を彩ったヒット曲「心の旅」「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」をはじめ、ほとんどの曲の作詞・作曲を手がけたのが、バンドの中心的存在である財津和夫さんである。バンドは1989年に解散したが、97年以降、度々再結成ツアーを行い、現在は2022年春から始まった「デビュー50周年記念ツアー“ the TULIP ”」の真っ最中。財津さんに今の心境などをうかがった。
(聞き手・構成 梶山寿子)

番組の収録中に…

――2017年、チューリップ45周年ツアーの途中で、大腸がんの手術をされました。座ったまま歌っておられた復帰直後とは見違えるほどお元気になられましたが、やはり無理は禁物ですね。

復帰直後は、抗がん剤の影響がまだ残っていて、力が出なかったんです。薬のせいで味覚も嗅覚もなくなって、食欲が落ち、すっかり痩せて……。でも、ありがたいことに、客席のみなさんは温かく迎えてくれました。

それから徐々に回復して、今はがんになる前より、ある意味、元気です。年寄りになって開き直ったこともあると思いますが、精神的にもすっきりして、随分とラクになった。生まれ変わった気分ですよ。

というのも、がんがわかる前から体調が悪かったんです。腰も痛いし、背中も痛い。ほんとにあちこち具合が悪くて。それをトシのせいだと思っていたのですが、2016年の秋に鼠径ヘルニアになってしまった……。

――大腸がんの前に、鼠径ヘルニア、いわゆる脱腸になった?

そうなんです。腸が右側の鼠径部にボコッと飛び出した。しかも、それが起こったのが、ちょうどNHKの「ファミリーヒストリー」という番組の収録中で……。収録が始まって10分くらい経った頃でしょうか。椅子に座って、おやじとおふくろについてのVTRを観ているとき、足を組み直した瞬間に、ズキッ!と鼠径部に激痛が走った。でも、本番中だから必死で我慢していたんです。

――えぇっ!? 激痛をこらえて、そのまま収録を続けたんですか。放送された番組を観ましたが、まさかそんなことが起こっていたとは。

今なら笑い話ですけどね。改めて番組を観直すとおもしろいかもしれませんよ。

腸閉塞から大腸がんが発覚

――番組の内容は、財津さんもご存じなかった事実が次々に明かされて、かなり感動的でしたよね。ご両親の苦労話に、財津さんも涙しておられました。

僕が物心ついたときは、おふくろが食堂を経営して一家を支え、おやじは飲んだくれていた。そこからの記憶しかなかったけれど、戦争中は、おやじなりに懸命にがんばっていたのだなとわかりました。

そんなVTRを観たのだから、感動の涙を流さなきゃいけないわけですよ。僕の表情を捉えようと、カメラがずっとこちらに向いているし……。ところが、おなかが痛くて、実はそれどころじゃなかった! 自分の両親の話だし、最後には涙が出たけれど、ヘルニアの痛みをこらえて泣いていたのかもしれませんね(笑)

――当時は、ちょうどチューリップ45周年のツアー中でしたよね?

ず~っと痛いわけではないので我慢できないこともないと、だましだましツアーを続けたんです。1ヵ月以上、病院に行かなかったのですが、ある日、ネットで調べたら「放置すると死ぬ危険性がある」と書いてある。腸が壊死し、腹膜炎を起こすと。これはたいへんだと、ようやく病院に行き、ツアーが休みに入る年末に手術をしたんです。

それでひと安心と思ったら、ツアーが再開した2017年5月末、仕事で福岡に行ったときに腸閉塞になってしまった。これはほんとに痛かった!近くの救急病院に駆け込み、検査をした結果、がんが原因で腸閉塞になったのだとわかりました。「すぐに手術をしましょう。この状態で飛行機なんかに乗れば、命の保証はできませんよ」と医師に言われたのですが、それを押し切って東京に戻り、すぐに入院したんです。

福岡と東京半々の暮らし

――快復されて、ほんとうによかったです。最近は、福岡と東京を行ったり来たりの生活だとか。大病やコロナ禍を経て、ご心境に変化があったのでしょうか。

トシをとったら、のんびりしたいじゃないですか。福岡は自分が育ったふるさとだから、他の場所よりはのんびりできるかなと……。コロナは関係ないですね。

「時々は福岡に行きたいな」という気持ちが沸々と湧いてきて、2019年頃から意識して福岡で仕事を入れるようになったんです。仕事があれば行く口実になるでしょ。そうやって行き来しているうちに、移動はたいへんだけど気分転換になるとわかり、今は福岡と東京、ちょうど半々で暮らしています。福岡では、ひとりでゆっくり散歩をしたり……。とはいえ、あまり世の中から離れていると不安になるので、そこのバランスをどう取るか模索しているところです。

終活もぼちぼち……。両親のルーツは熊本だし、この世とおさらばする場所はやっぱり九州かな、とかね。それが血っていうものかと。お墓のこともあれこれ考えていますが、それについては、嫁の意向におとなしく従うことにしています。(笑)

「チューリップ」という言葉の「青さ」が好きに

――「できることなら、歌を歌って生きてゆきたい」。財津さんが大学生のときにつくられた伝説の名曲、「私の小さな人生」の歌詞の通りの人生になりましたね。

それしかできないですからね。自分という人間は、ちゃんとした社会でやっていけないと思うんですよ。ず~っと地に足がついてない。どこにいても落ち着かない。いつも不安だし。こういう仕事でよかったと、最近、つくづく感じています。

――いやいや、ビジネスでも成功されたかもしれませんよ。でも、音楽はやはり天職だったのではないですか。改めて振り返ってみて、チューリップというバンドは、財津さんにとっても「青春」でしたか。

そうでしょうね。世の中のことをよく知らずに、狭い世界で生きてきましたから。チューリップしかなかったんです。

でも昔は、「チューリップ」というバンド名が嫌いでした。女の子のバンドと間違えられたりしましたし……。ところが最近は、なぜか嫌いじゃない。そうか!なるほど……話しているうちに気づきました。「チューリップ」という言葉の響きには、青春とか、若さとか、幼さとか、「青さ」を感じさせるものがあるでしょう。それって、このトシになったら欲しいものじゃないですか。もし売っていたら、すぐにでも買いたいみたいな。(笑)

若いときは「青さ」が嫌いだったのに、50年経って、やっとその「青さ」が好きになった。なぜかというと、失ってしまったから。そういうことだと思います。

――チューリップは、ファンのみなさんの心の中で永遠に咲く“青春の花”ですね。今日はどうもありがとうございました。

チューリップは心の中で永遠に咲く“青春の花”