「通用するはずがない」26歳の日本人が“年俸980万円”でメジャー挑戦…28年前、“人気急落”のアメリカ野球を救った野茂英雄の伝説

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日本での安定した地位を捨て、自分の力を試す道を選んだ無口な若者が、アメリカ野球の救世主になった(写真はイメージ)

  球史に残る大投手の生涯ベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。金田正一、江川卓、山本由伸、沢村栄治らに続く第10回は、日本人選手にメジャーへの道を拓いたパイオニア・野茂英雄(近鉄-ドジャース他)だ。

野茂がメジャーデビューした日

 日本のプロ野球発展に大きな影響を与えた投手を二人挙げるとするなら、それは沢村栄治と野茂英雄だろう。

 1934年11月20日。弱冠17歳の沢村栄治が、静岡草薙球場でベーブ・ルース率いるメジャーリーグ・オールスターチームから三振の山を築いた。

沢村栄治が生まれた三重県宇治山田市(当時。現在は伊勢市)の宇治山田駅前に立つ沢村の像 ©Toshiaki Ota沢村栄治が生まれた三重県宇治山田市(当時。現在は伊勢市)の宇治山田駅前に立つ沢村の像 

 この日を境に「日本プロ野球が始まった」といわれるなら、「日本プロ野球の門戸が開かれた日」は野茂英雄のメジャーデビューになるだろう。

 1995年5月2日。近鉄からロサンゼルス・ドジャースに移籍した野茂英雄が、サンフランシスコのキャンドルスティックパークでジャイアンツを相手に5回を投げて1安打、7奪三振、無失点に抑えた。終戦後長く“鎖国”していた日本プロ野球が、世界に開かれた瞬間だった。

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1995年5月2日、メジャーデビューを飾った野茂英雄 ©KYODO

 メジャーへの初の挑戦者になった野茂(1964年に南海の村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツの一員としてメジャーデビューしているが、村上は南海所属の選手として野球留学中のテンポラリーの出場だった)は当時、間違いなく日本最高の投手の一人だった。

プロ1年目成績が驚異的だった

 1989年のドラフトで、新日鉄堺に所属していた野茂は史上最多となる8球団から1位指名を受けた。それも、東北福祉大学の佐々木主浩、NTT東京の与田剛、早稲田の小宮山悟、松下電器の潮崎哲也、野手では上宮高校の元木大介ら錚々たる顔ぶれが揃う中での競合指名である。

 近鉄入団1年目の1990年、野茂は18勝8敗の好成績で、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手4冠を達成。併せて新人王、ベストナイン、MVP、沢村賞を受賞するという鮮烈なデビューを飾った。日本プロ野球史上、新人王・MVP・沢村賞を同時に受賞したのは野茂一人である。また、この年の三振奪取率10.99は、2019年の千賀滉大(11.33)に破られるまでパ・リーグ記録だった。

 そこから4年連続で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得。この「新人から4年連続で最多勝・最多奪三振」も、プロ野球史上、野茂のみである。

近鉄時代の野茂 ©Makoto Kenmizaki近鉄時代の野茂 ©Makoto Kenmizaki

 こうして、順調に日本屈指の投手に成長していったが、5年目の1994年に運命が暗転する。

メジャー挑戦を決めるまで

 前年の1993年から近鉄の監督が、野茂のよき理解者だった仰木彬から鈴木啓示に変わった。鈴木は、野茂の特異なトルネード投法に否定的で、四球を減らすためにフォーム改造を主張していた。

 さらに、こんな「事件」もあった。シーズン途中から右肩痛に悩まされていた野茂は、7月1日の西武戦で制球が定まらず、なんと16四球(日本記録)を献上。結果として完投勝利を収めるも、途中交代することなく甲子園もびっくりの191球を投げさせられた。

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16四球を与えながら完投勝利した野茂。左は当時監督の鈴木啓示 ©KYODO

 鈴木による、みせしめとも取れるような酷使によって故障を悪化させた野茂は、その後登録を抹消され、結局このシーズンは8勝、126奪三振に留まり、デビュー年から続けていた最多勝と最多奪三振の連続受賞記録が途絶えてしまった。

 1994年のオフの契約交渉で、野茂は複数年契約と代理人による交渉を持ちかけて球団と対立。故障で投げられないままシーズンを終えた投手の主張を、マスコミも“わがまま”と批判的に報じて、すっかり悪役になってしまった。

 結局、近鉄との交渉は決裂。野茂は日本のどの球団にも移籍できない任意引退選手となった。

「年俸980万円」を選んだ

 とはいえ、メジャーははるかにレベルが高いと考えられていて、日本での成功を捨ててメジャーに挑戦する選手はそれまで現れなかった。野茂がロサンゼルス・ドジャースと契約した後も、ほとんどの評論家は「通用するはずがない」と、野茂の挑戦を冷ややかな目で見ていた。野茂の年俸はメジャー最低保証の10万ドル(当時のレートで約980万円)。近鉄時代の推定1億4000万円から大幅な減額になっての挑戦だった。

全米に「トルネード旋風」

 日本球界から石もて追われるようにアメリカに渡った野茂だったが、マイナー契約から実力で開幕メジャーを勝ち取り、ドジャースの1年目に13勝6敗、防御率2.54、奪三振236という圧巻の成績を収め、新人王も獲得。オールスターの先発という夢のような舞台まで経験した。

全米でトルネード旋風を巻き起こした ©Kazuaki Nishiyama全米でトルネード旋風を巻き起こした ©Kazuaki Nishiyama

 メジャーで旋風を起こす野茂を日本の野球ファンは熱狂的に応援し、日本野球を知らなかった米国の野球関係者は「パ・リーグの6球団にはどこも、野茂に匹敵する投手が二人はいるよ」という千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督の証言に驚愕した(ロサンゼルス・タイムズ1995年7月31日)。

 野茂は、日本での5年間よりはるかに長い12シーズンをアメリカでプレー。通算123勝109敗、1918奪三振、防御率4.24の成績を残し、2度のノーヒット・ノーランまで達成した。

山本由伸と比較すると…

 さて、いよいよ当企画の昭和後期以降の現チャンピオンである山本由伸(オリックス)と野茂の勝負である。

 野茂の日本プロ野球でのベストシーズンは、近鉄入団初年度で、投手4冠を達成して沢村賞を受賞した1990年になる。この年の成績と、山本のベストシーズンである2021年の成績を比較すると以下のようになる(赤字はリーグ最高、太字は生涯自己最高)。

【1990年の野茂】登板29、完投21、完封2、勝敗18-8、勝率.692、投球回235.0、被安打167、奪三振287、与四球109、防御率2.91、WHIP1.17

【2021年の山本】登板26、完投6、完封4、勝敗18-5、勝率.783、投球回193.2、被安打124、奪三振206、与四球40、防御率1.39、WHIP0.85

 野茂は、完投数、投球回で大きく山本をリードしているが、これは時代による差が大きい。当企画で重視している「打者圧倒度」――1試合あたりの被安打数、9イニングあたりの奪三振率、防御率、WHIP(投球回あたり与四球・被安打数の合計)を見てみたい。

 1試合当たりの被安打数は、野茂の6.40に対して、山本5.76と山本リード。一方、奪三振数は野茂が勝り、9イニング当たりの奪三振率も、野茂10.99、山本9.57と凌駕。さすがは“ドクターK”である。

「四球の数」に大差の理由

  二人の差で最も顕著なのが四球数で、野茂の109に対して山本は40。

 野茂は、四球で出したランナーを背負いながら、最後は高めの速球か消えるフォークで三振というのが定番だった。事実、新人から4年連続でパ・リーグの与四球王。それでも抑えるという典型的なパワーピッチャータイプだった。

 対して山本は精密な制球を誇る。この制球力の差はそのまま、WHIP、そして防御率の差の原因になり、いずれも山本が上回った。先述した「打者圧倒度」という視点では、山本に軍配を上げざるをえない。

WBCでも好投した山本由伸(オリックス) ©Naoya SanukiWBCでも好投した山本由伸(オリックス) ©Naoya Sanuki

 以上からオールタイム・チャンピオンは沢村栄治、パートタイム・チャンピオンは山本由伸でタイトルの防衛とする。

 筆者は、近鉄時代の野茂を目撃しているが、西武の四番・清原和博との力と力の対決の場面の迫力は、いまでも目に焼きついている。野茂はフォークを封印して、ストレート一本で1歳年上の西武の主砲に挑んでいった。

 メジャー挑戦初年度のオールスターで、当時世界最高のスラッガーと言われたフランク・トーマス(シカゴ・ホワイトソックス)を2ストライクと追い込んだとき、捕手のピアザは三振を取ろうとフォークのサインを出したが、野茂は首を振って思い切りストレートを投げ込んだ。結果はびっくりするほど高く上がったキャッチャーフライだったという。(「僕のトルネード戦記」野茂英雄 集英社文庫)

米メディア「野茂は野球の救世主」

 日本での安定した地位を捨て、より高いレベルで自分の力を試す道を選んだ無口な若者は、トルネードと呼ばれたユニークなフォームから繰り出す最速157キロのストレートと打者の手元で消えると恐れられたフォークボールで三振の山を築き、全米を熱狂させた。そして、その熱狂は、二度の世界大戦中も開催されていたワールドシリーズを中止に追い込んで、この年の開幕をひと月も遅らせた232日間に及ぶ選手のストライキで失われた野球への関心を引き戻した。

「野茂は、アメリカでは野球という国民的娯楽の救世主となり、日本でも国民の誇りの象徴になった」(シカゴ・サンタイムズ1995年9月13日)

 本場の野球人気を取り戻した救世主であり、日本人のメジャー挑戦の扉をこじ開けたパイオニア、野茂英雄。彼が残した功績は今後も色褪せることはない――そう断言できる稀有な野球人である。

©Koji Asakura©Koji Asakura