731部隊の恐ろしい実態…中国人の捕虜で人体実験し、細菌攻撃を繰り返した

300億円近い予算を使って…

昭和初期の満州を舞台に、アヘンの密売を描いたクライムサスペンス『満州アヘンスクワッド』(原作/門馬司、漫画/鹿子)。1931年9月18日の満州事変を契機に現在の中国東北部に成立した満州国は、アヘンで栄えアヘンとともに滅びたと言えるだろう。

そんな約100年前の満州の「裏社会」では、いったい何が起こっていたのか……? 
前編記事『両手を床につけて尻を突き出し、肛門をチェックされる…日本軍で実際に行われていた「ヤバすぎる徴兵検査」』に引き続き、『昔々アヘンでできたクレイジィな国がありました』より当時の満州の軍事情勢を紹介しよう。

日本軍最強の精鋭集団

満州事変を起こし、満州国建国を決定付けた関東軍は、満州国を実質的に統治した巨大組織でした。このため「独走」とか「独断専行」のイメージがつきまといます。

ソ連を仮想敵国として編制された総軍は、最盛期には70万人もの精兵を有し、1945年の敗戦まで圧倒的な権勢をほしいままにしていました。

けれども、元をたどれば、関東軍は鉄道守備隊にすぎません。話は日露戦争の講和条約、ポーツマス条約が締結された1905年にさかのぼります。この条約で関東州租借地と長春〜旅順間の東清鉄道南満州支線(のちの満鉄)および付属利権が、ロシアから日本へ譲渡されます。この後半部分、「長春〜旅順間の東清鉄道南満州支線」の拡大解釈が、関東軍を狂わせることになりました。

Photo by gettyimages

条約締結を受けて、関東都督府陸軍部の名で設立されたのが関東軍の前身です。鉄道と付属地の防衛が任務ですから、当初こそ配置されたのは6個大隊のみ。兵員も予備役の志願兵で構成されていました。その後、1916年からは現役兵が投じられますが、国際的な軍縮ムードの影響で、一時は2個大隊にまで縮小。1929年には再び6個大隊に戻りますが、実はこの間に大きな変化がありました。

軍部独走が始まりつつあったのです。日本の陸海軍全体を通して軍縮への反発が強まり、関東軍では、東京の参謀本部や外務省まで無視した独走の気運が高まっていきます。

関東軍の暴走と満州事変

時に中国では蔣介石率いる中国国民党による統一の気運が高まっていました。張作霖はそれを阻止しようと、直隷軍閥の残党をも指揮下に収め、みずから迎撃に乗り出しますが、北伐軍の勢いを止めることはできず、敗北を重ねます。

関東軍は一度ならず、張作霖に助け舟をだしますが、関東軍の中には張作霖が独自の鉄道建設を始めたことを快く思わず、暴走する者が現れました。張作霖が北京から奉天に逃げ戻るときを狙い、爆殺してしまったのです。


張作霖[Photo by gettyimages]

暗殺に関与した者たちは予備役にまわされましたが、一度先例ができてしまうと後に続く者は気楽なもので、張学良が満鉄の存在を脅かすだけでなく、日本から特殊権益を回収しかねない状況になるに及び、今度は関東軍だけでなく、朝鮮駐屯軍や参謀本部を巻き込んだ入念な計画が練られます。

その結果として、1931年9月には満州事変(柳条湖事件)が起こります。1932年9月15日に締結された日満議定書には、両国の共同防衛に必要なため日本軍の満州国内への駐屯が明文化されます。

さらに非公開の秘密協定には、「満州国の外交・治安・国防および国防上必要な施設をすべて日本に委ね、またそれを職掌する参議府の参議や中央および地方の官署の官吏の人事についても日本の援助指導に委ねる」とあり、満州国の真の支配者が誰なのかを、如実に読み取ることができます。

「溥儀・本庄秘密協定」と呼ばれるこの協定は、表向き、満州国執政・溥儀から、関東軍司令官・本庄繁に宛てた“依頼”とされているのです。

もう一つの闇

満州にはもう一つ、闇のスポットが存在しました。秘匿名・満州第七三一部隊、通称「石井(細菌戦)部隊」です。

石井部隊の名は責任者であった石井四郎の名に由来します。早くから細菌兵器に着目していた石井は各方面に働きかけを続け、1936年にようやく天皇の認可する正式な部隊として認められます。発足時の正式名称は関東軍防疫部。本拠地は哈爾濱郊外の平房という地に設けられました。

石井四郎[ウィキメディアコモンズ]

1928年に発効したジュネーブ協定により、化学兵器や生物兵器の使用は禁止されていました。研究と開発はその限りではありませんでしたが、表立って行うのはさすがにまずく、石井はかねてから、欧米諸国から目の届かない満州の北端を研究所の最有力候補に挙げていました。

生物兵器の開発

1940年、関東軍防疫部は名称を関東軍防疫給水部に改め、関東軍司令部第一作戦部と同軍医部に属するとされました。二重の指揮系統を持つ特殊部隊で、年間予算は1000万円、現在の価値に換算すれば300億円に近い途方もない金額です。

「マルタ」の防諜名で呼ばれた中国人などの捕虜による生体実験が重ねられた結果、ペスト菌やチフス菌、コレラ菌などの培養に成功。1940年秋には浙江省の寧波(ニンポー)、金華(ジンファ)、玉山(ユイシャン)などの都市に対して都合6回の細菌攻撃が実行されています。

空中からの散布に加え、スパイを使って貯水池や河川、井戸に投下、建物などにも散布しましたが、コレラとチフスは期待したほどの効果を挙げず、それ以降はペスト菌に重点が置かれました。

Photo by iStock(画像はイメージです)

1941年には湖南省の常徳、その翌年にはアメリカ軍による本土空爆への報復として、爆撃機の着陸地となっていた中国大陸の空港を使用不能にする目的も兼ねて、沿岸部にある空港に対して攻撃を仕掛けます。

しかし、この作戦を最後に細菌兵器の大量投入は見られなくなりました。敵よりも進駐した味方への被害のほうが大きかったことに加え、ノミの散布に利用するネズミの不足が原因と言われています。ノミを直接撒くのは難しいため、ネズミにたからせた上で、ノミまみれのネズミを地上で放つ方法が取られていたのです。

狂気を今に伝える遺構

平房(ピンファン)での研究と開発はその後も継続されますが、1945年8月、ソ連軍が到着したときには、機密書類とマルタはすべて焼却、建物の一部も爆破されました。

司令部の建物の一部と、死体焼却炉の煙突が2本、それに実験用ボイラー室や細菌爆弾工場などは、いまも残っています。これらの遺構に隣接する「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」では、部隊で人体実験の実務にあたった医師の何人かの証言フィルムを見ることができますが、人の妄信と狂気がどれほど恐ろしいかを思い知らされます。

image

Photo by gettyimages

石井部隊の研究成果はアメリカも喉から手が出るほど欲するものだったので、石井四郎当人をはじめ、部隊の上層部は戦犯として裁かれることもなく安泰でしたが、下っ端は死ぬまでブラックリストに名が残り、アメリカへの入国を許されませんでした。

石井四郎の懐刀で、石井部隊の番頭を自任した内藤良一という人物は、戦後に日本初の血液銀行「日本ブラッドバンク」を設立。1964年には社名を「ミドリ十字」と改めますが、この会社が薬害エイズ事件を引き起こしたのは何かの因果かもしれません。

さらに関連記事『731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」』では、少年時代に実際に731部隊に在籍していた当事者の証言を紹介しよう。